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ジャイアンメイデンのバイオグラフィー

● 剛田武 1964年6月15日生まれ。

少年時代より地元の空き地にて積極的にライブ(リサイタル)活動を行う。
小学生当時は剛田一人での長時間リサイタルを続けていたが、
中学に入学するのとほぼ同時期に旧友の骨川スネ夫(G)、野比のび太(B)、源静香(KEY)を強引に
呼び込み、「ジャイアンメイデン」結成。
ドラマーが居なかったため、当時野比の家に居候していた謎の異国人ドラ・エ・モンが長期に渡りサポートで参加。

’89年、バンドブームの波に乗り華やかにメジャーデビュー。
2ndシングル「俺はジャイアン」がオリコン初登場2位を記録する。
長い芸能生活を経てグラムロックばりの奇抜な衣装を着てデス声で歌うという独特のスタイルを確立。
後のハードコアやデスメタル、ヴィジュアル系ロックにも大きな影響を与えた。

そして’98年、ドラッグの過剰摂取により死亡。
享年34歳。

● 骨川スネ夫:Guitar, 1965年2月生まれ 誕生日不詳

中学に入学するのとほぼ同時期に親友の 剛田武:Vocal
に誘われ、「ジャイアンメイデン」結成。
’89年、父親の知り合いのレコード会社のオーディション大会で優勝しメジャーデビュー。
音楽活動に反対だった父親を納得させる。
2ndシングル「俺はジャイアン」がオリコン初登場2位を記録する。
この曲の骨川のギターリフが、80年代最高のギターリフと称される。

’94年、バンド活動が休止
’96年、ソロ1stシングル「スネ夫のうた」がロングヒットを記録する
’97年、ソロアルバム製作中、最愛の父親が死去。1stアルバム「魂の棺桶」がミリオンヒットを記録
莫大な父親の遺産争いで、アメリカで弁護士をしている親戚で実の弟スネツグと裁判沙汰になる。
’98年、親友の剛田武がドラッグ過剰摂取のため死去。
裁判でまさかの逆転敗訴。母親が謎の失踪。心身、共に疲れ音楽活動を引退する。

● 野比のび太:Bass 1964年8月7日生まれ

’76年、「ジャイアンメイデン」を結成。
’88年10月25日、20年間の大恋愛の末、メンバーの源静香:Violin, Electric Piano と結婚
’89年、オーディション大会で優勝し、メジャーデビュー。
’92年、野比のBassの演奏技術について、音楽雑誌に野比批判、不要論が載る。
その記事を見た剛田武が、雑誌社に襲撃事件を起す。
※生前、剛田は野比のBassの演奏について、こう語っていた。
「ベースの技術云々でなく、彼の人柄がベースを弾いている」
剛田の全幅の信頼を置いていた。
’93年、父親の野比のび助が死去。
’94年、バンド活動が休止。1stシングル「のんきなのび太くん」をリリース。
’96年、ブラジル人のキー坊と出会い、ブラジルの熱帯雨林の悲惨さに刺激を受け
ブラジル熱帯雨林保護キャンペーンライブを行い、大成功を収める。
それ以降、音楽活動をする傍ら積極的に社会運動も行っている。
’97年、野比のび太、静香夫妻に待望の第一子「ノビスケ」が誕生。
’98年、息子の「ノビスケ」の家出、傷害事件が週刊誌に取り沙汰される。

● ドラ・エィ・モン:Drums, Percussions 生年月日不明

’76年、剛田はVocalをしながらDrumもしていたが負担が大きいため
当時野比の家に居候していた謎の異国人ドラ・エィ・モンが「ジャイアンメイデン」に※サポートとして参加
※正式にバンド・メンバーではなく’94年の活動休止までサポート・メンバーだった。
インディーズ時代から、Vocalの剛田よりも目立つ全身青い衣装(通称、青子)でドラムを叩くスタイルが話題になる

’89年、バンドブームの波に乗り華やかにメジャーデビュー。
2ndシングル「俺はジャイアン」がオリコン初登場2位を記録する。
ドラ・エィ・モンのドラムテクニックが話題になる。ロボットのような正確なドラミング。
新人では異例のドラム専門雑誌に、2ヶ月間連続表紙を飾る。
’91年、当時、日本では考えられなかった欧米ツアーを1年間敢行する。成功を収める。
初めはドラ・エィ・モンの青子の姿が観客に笑われるが、ライヴが始まると彼のドラミングに終始魅了された。
この1年間の欧米ツアーの活躍で、世界のトップクラスのアーティスト達から数々のオファーが来る

’92年、この年からの「ローリング・ストーンズ」誌に世界最高のドラマー1位に3年連続選ばれ殿堂入り果たす
’93年、初のアジアツアー敢行。ツアー中、ある国で彼が食用ネズミを食して体調を崩し、途中でアジアツアーが中止になる

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