◎ 信濃の国
浅井洌(あさいきよし)作詞
依田弁之助 作曲
北村季晴(きたむらすえはる)編曲
一
信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
そびゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれもの沢に 万足らわぬ事ぞなき
二
四方にそびゆる山々は 御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間はことに活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀まず行く水は 北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川 これまた国の固めなり
三
木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
民のかせぎも豊にて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑採りて 蚕養いの業のうち開け
細き世すがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり
四
尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床
木曽の桟かけし世も 心して行け久米路橋
来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姥捨山
著き名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる
五
旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず
六
吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山
穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道
道一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国に偉人のある習い
◎ 以下、ルビ付き (・∀・)♪
一
信濃の国は十州(じっしゅう)に
境連(さかいつら)ぬる国にして
聳(そび)ゆる山はいや高く
流(なが)るる川はいや遠し
松本 伊那(いな) 佐久(さく) 善光寺
四つの平(たいら)は肥沃(ひよく)の地
海こそなけれもの沢(さわ)に
万足(よろずた)らわぬ事(こと)ぞなき
二
四方(よも)にそびゆる山々は
御嶽(おんたけ) 乗鞍(のりくら) 駒ヶ岳
浅間(あさま)はことに活火山
いずれも国の鎮(しず)めなり
流れ淀(よど)まず行(ゆ)く水は
北に犀川(さいがわ) 千曲川(ちくまがわ)
南に木曽川(きそがわ) 天竜川(てんりゅうがわ)
これまた国の固(かた)めなり
三
木曽の谷には真木(まき)茂り
諏訪の湖(うみ)には魚(うお)多し
民(たみ)のかせぎも豊にて
五穀(ごこく)の実らぬ里やある
しかのみならず桑採(と)りて
蚕養(こが)いの業(わざ)のうち開け
細き世すがも軽(かろ)からぬ
国の命を繋(つな)ぐなり
四
尋(たず)ねまほしき園原(そのはら)や
旅の宿りの寝覚(ねざめ)の床(とこ)
木曽の桟(かけはし)かけし世も
心して行け久米路橋(くめじばし)
来る人多き筑摩(つかま)の湯
月の名に立つ姥捨山(おばすてやま)
著(しる)き名所と風雅士(みやびお)が
詩歌(しいか)に詠(よみ)てぞ伝えたる
五
旭将軍義仲(あさひしょうぐんよしなか)も
仁科五郎信盛(にしなのごろうのぶもり)も
春台太宰(しゅんだいだざい)先生も
象山佐久間(ぞうざんさくま)先生も
皆この国の人にして
文武(ぶんぶ)の誉(ほま)れたぐいなく
山とそびえて世に仰(あお)ぎ
川と流れて名は尽(つき)ず
六
吾妻(あずま)はやとし日本武(やまとたけ)
嘆(なげ)き給(たま)ひし碓氷山(うすいやま)
穿(うが)つトンネル二十六
夢にも越ゆる汽車の道
道一筋(みちひとすじ)に学びなば
昔の人にや劣(おと)るべき
古来(こらい)山河の秀でたる
国に偉人のある習(なら)い
◎ 以下、解説 (・∀・)♪
第一章は総論である。「強起アレグレット」調子で歌う
長野県は海のない内陸県で、隣国八県十ヶ国:上野(群馬)武蔵(埼玉)甲斐(山梨)駿河、遠江(静岡)三河(愛知)美濃、飛騨(岐阜)越中(富山)越後(新潟)に囲まれ,峠を通じて往来した。
四つの盆地:中信(松本)南信(諏訪・伊那)東信(上田・佐久)北信(長野:善光寺)を中心に人が集中しそれぞれ異なった文化・気質を形成している
第二章節以下は各論である。此処では信濃の地理を詠う。
今では山なら穂高岳3190m・槍ヶ岳3180m・仙丈岳3033mなどが歌い込まれる処であろうが,当時の美観で姿美しき山が取り上げられてる。御嶽信仰の御嶽山3063m・乗鞍岳3026mは、乗鞍火山帯に属する岐阜県境の山。駒ヶ岳2956mは、木曽谷と伊那谷を分かつ中央アルプスの主峰.多くある駒ヶ岳と区別するため木曽駒ヶ岳という。浅間山2560mは、群馬県境の活火山。天明三年(1783)七月の大噴火は、地元の甚大な被害と、天明の大飢饉をもたらした。
川の選択は今でも通ずる。何れも長躯をなす急流である。日本海・太平洋へ分ける奈良井川(+犀川)と木曽川227kmの分水嶺は中山道の鳥居峠、千曲川220kmの源は甲武信ヶ岳(甲州・武州・信州国境),犀川80kmと合し越後で信濃川(全長367km)と名を変え日本海に注ぐ。遠州灘に注ぐ鉄砲水の天竜川213kmは、諏訪湖が源。
第三章節は信濃の産物の概観である
木曽は豊富な森林資源を持つ。木曽五木(檜・椹・高野槇・明檜・ねずこ)は御用林として厚く保護された。諏訪湖は、ワカサギ漁がある。
蚕産による絹糸は当時の日本の輸出八割を占める国の屋台骨であった。ナイロンが発明される前は西洋の貴婦人の必需品であった。諏訪地区は世界に冠たる絹糸の生産地であった。諏訪の片倉会館は当時の隆盛が偲ばれる。かっては蚕の餌となる桑畑が多かった。
第四章節は一転して「弱起モデラート」調子で歌う。信濃の名所旧跡の紹介である。
当時の審美眼による選択。今なら上高地・霧ヶ峰などの観光地が歌い込まれる処であろう。
古の信濃への入り口は今の阿智村東山道神坂峠。園原は神坂峠近辺を謂う。古今の和歌にも詠われる古き場所である。
浦島太郎の寝覚め伝説に由来する「寝覚ノ床」は木曽川の浸食で出来た奇岩とエメラルドグリーンの水とのコントラストの美しい名勝。「桟橋(かけはし)」は、木曽川と絶壁に阻まれた中仙道の難所に架けた桟橋。共に木曾の上松が舞台。
久米路橋(くめじばし)は、北信・信濃新町と長野市信更との間の犀川に架かる橋。下流にダムが出来て付近の渓谷の景勝が水没した。新町美術館にある掛け軸で昔の縁を偲べる。
筑摩(つかま)の湯は、松本の美ヶ原温泉。日本書紀に登場する。
姨捨山(おばすてやま)の斜面に雛壇をなす田圃に映える「田毎の月」の風流も採用。ちなみに、信濃の国の三大景観は、この姨捨(篠ノ井線姨捨駅での景色)・塩尻峠(諏訪湖越しの富士山)・杖突峠(諏訪盆地・霧ヶ峰のパノラマ)。
第五章節は調子を戻して歌う,信濃の文武の偉人の紹介である
木曾義仲は巴御前と武勇で知られる。倶利伽藍峠で牛を使って平家を最初に破った事は著名。墓が木曾の福島にある。信濃は戦国時代甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の角逐の地で後世に名を残す武人が乏しい。真田幸村であっても良かった筈だが。仁科五郎信盛(盛信の誤り)は,武田信玄の五男で、兄武田勝頼の命により高遠城に詰め、天正10(1582)年織田信長に滅ぼされた最後の仁科(今の大町)城主である。
太宰春台は飯田出身の江戸の経済家者。佐久間象山は松代出身の開国の思想家。ともに幕末に活躍した。
碓氷峠1180mは日本武尊(やまと たけるのみこと)の古から、信濃へ入る峠で、交通の難所であった。日本武尊は、景行天皇の皇子で、東征の折りこの碓氷峠で、弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲び、”東南を望りて三たび嘆きて曰く「吾嬬はや」とのたまふ”と日本書紀にある。弟橘姫は海神の怒りを鎮める為に海に身を捧げた日本武尊の妾。
明治10年から進められた信越本線の難工事は26のトンネルを碓井峠に掘削し、そこにアブト式のレールを敷いた。上野・長野間に初めて汽車が通じたのは明治26年。麓の横川駅は387m、軽井沢駅は939m、標高差552m、66.7/1000の急勾配を汽車はあえぎあえぎ登った。当時の衝撃的出来事であった。是をきっかけに峠の往来が寂れていった。
平成9年(1997)10月1日長野行き北陸新幹線の開通により、この横川・軽井沢間は廃線になった。在りし日の碓氷峠越えの鉄道文化を碓氷峠鉄道文化むら応援団ホームページ [群馬県碓氷郡松井田町横川駅]が伝えている.